冬休み期間中は、先生方から生徒の皆さんへ
年末年始の挨拶として、
メッセージをお届けします
今回の担当は、3年3組担任のA先生です
皆さんは自分の
「ひいおじいちゃん・ひいおばあちゃん」の
名前は言えますか
自分の「おじいちゃん・おばあちゃん」は
父方と母方と合わせて合計4人なので、
その親である
「ひいおいじいちゃん・ひいおばあちゃん」は
8人いますね。
しかし、8人全員の名前を言えますか
私たちは、ご先祖様からの命のバトンを
引き継いで今、生きています
このご先祖様の数は
1代前が父と母で 2人
2代前がおじいちゃんとおばあちゃんなので 4人
・
・
10代前で1024人
20代前では100万人
※およ江戸幕府が開かれた頃
30代前では21億人
40代前では2兆人です。
※およそ鎌倉時代の頃
今、世界中にいる人たちよりも多い数の
ご先祖様が自分達にはいる訳です
3年前の夏、私の祖父が亡くなりました。
その葬儀の際に祖父の弟が、祖父が生前には
語らなかった、祖父の人生について教えてくれました。
私の祖父は、昭和8年生まれで、
戦争を経験しています。
戦前と戦後では、暮らし方も人々の考え方も
大きく違った為、平和な時代に生きている
私たちにはなかなか実感できないような
苦労が多かったようです
今となると、生きているときに祖父から、
どんな人生だったのか、どんな時代を生きたのか
もっと聞けばよかったのですが、
亡くなってしまった今では
聞くことができません
しかし、戸籍をとり、それを読みとくことで、
明治時代や、運が良いとそれよりも前のご先祖様の
「名前」
「誕生日」
「亡くなった日」
「住所」
「結婚した相手」
「親の名前・子供の名前」
を調べることができます。
そこで、夏休みに、遡れるところまでの
すべての戸籍を取り寄せ、自分の先祖に
ついて調べてみました
調査で見つかった、私の先祖の中で
一番古い人は「1804年生まれ」の方でした
この人は私の
ひいひいひいひいおじいちゃんにあたり、
生きていれば217歳になります
1804年となるので、
ペリー来航や天保の改革よりも
もっと前の時代。
「杉田玄白」や「伊能忠敬」が活躍した頃です
また、私のひいおじいちゃん「K吉」は、
生まれは愛知県でした
どういうきっかけか分かりませんが
浜松に移住し、小さな製糸工場を
営んでいたようです
そして、「K吉」が浜松で家を建てた場所が
後に私の生まれ育った家です
また、「K吉」の生まれた愛知の家を
調べてみると、その街は、昔、
参勤交代の際に、宿屋として栄えていた街。
K吉の家も、当時の宿屋のメイン通りの
ような場所に建っていました
近隣の家は、宿屋だけでなく様々な店舗が
立ち並んでいたことから、
「K吉」が生まれた家は、商売を営んでいた
可能性があります
また、この「K吉」については、
戸籍から新たに分かったことが他にも…
「K吉」は、27歳のときに「M子」と結婚
「M子」は2人の娘を出産しますが、
次女が2歳のときに
次女とM子同じ日に亡くなっています
母と子である「M子」と「次女」は
同日に亡くなっていることから、
二人一緒に事故などにあったのだろうと推測します。
K吉は、妻と子を同時に亡くし、
とてもつらかったことでしょう。
さて、その後、K吉は32歳のときに再婚をします
相手は、亡くなった妻「M子」の妹
「N子」でした。
なんと、亡くなった妻の妹と再婚をしていた訳です
こういった事例は、昭和初期やそれ以前の時代では
少なくなかったようです。
今の時代とは、結婚の考え方がまったく違う時代。
本人が決める結婚ではなく、親が決める結婚
家を絶やさないための結婚であったことが
よくわかります。
また、後妻である「N子」の立場になって考えると、
自分の姉を亡くし、そして亡くなった自分の
姉の子供も引き取り、育てた
「N子」自身も、3人の子供を生みますが、
そのうち1人は幼いうちに亡くなっています
無事に大人になれるということが、
どんなにありがたく幸せなことかと
考えさせられます
自分のご先祖がそんな大変な思いをしたことは、
私も、
私の両親もずっと知りませんでした
と、このように戸籍を遡ると
先祖の生きた世界が見えてきます
まるでタイムスリップをして、
昔に行ったような気分です
他にも分かったことは沢山ありますが、
あまりにも長くなってしまうので
この辺で
戸籍からは、亡くなってしまって
調べられない先祖のことが分かります。
しかし、一番良いのは 生きているうちに
その家族のことを聞くこと。
ぜひ、親戚が集まる際には、
おじいちゃんやおばあちゃんの昔の話、
それより上の代のご先祖様の話を
聞いてみてくださいね
写真は、小さな頃の私と、祖父・祖母です
年末年始の挨拶として、
メッセージをお届けします
今回の担当は、3年3組担任のA先生です
皆さんは自分の
「ひいおじいちゃん・ひいおばあちゃん」の
名前は言えますか
自分の「おじいちゃん・おばあちゃん」は
父方と母方と合わせて合計4人なので、
その親である
「ひいおいじいちゃん・ひいおばあちゃん」は
8人いますね。
しかし、8人全員の名前を言えますか
私たちは、ご先祖様からの命のバトンを
引き継いで今、生きています
このご先祖様の数は
1代前が父と母で 2人
2代前がおじいちゃんとおばあちゃんなので 4人
・
・
10代前で1024人
20代前では100万人
※およ江戸幕府が開かれた頃
30代前では21億人
40代前では2兆人です。
※およそ鎌倉時代の頃
今、世界中にいる人たちよりも多い数の
ご先祖様が自分達にはいる訳です
3年前の夏、私の祖父が亡くなりました。
その葬儀の際に祖父の弟が、祖父が生前には
語らなかった、祖父の人生について教えてくれました。
私の祖父は、昭和8年生まれで、
戦争を経験しています。
戦前と戦後では、暮らし方も人々の考え方も
大きく違った為、平和な時代に生きている
私たちにはなかなか実感できないような
苦労が多かったようです
今となると、生きているときに祖父から、
どんな人生だったのか、どんな時代を生きたのか
もっと聞けばよかったのですが、
亡くなってしまった今では
聞くことができません
しかし、戸籍をとり、それを読みとくことで、
明治時代や、運が良いとそれよりも前のご先祖様の
「名前」
「誕生日」
「亡くなった日」
「住所」
「結婚した相手」
「親の名前・子供の名前」
を調べることができます。
そこで、夏休みに、遡れるところまでの
すべての戸籍を取り寄せ、自分の先祖に
ついて調べてみました
調査で見つかった、私の先祖の中で
一番古い人は「1804年生まれ」の方でした
この人は私の
ひいひいひいひいおじいちゃんにあたり、
生きていれば217歳になります
1804年となるので、
ペリー来航や天保の改革よりも
もっと前の時代。
「杉田玄白」や「伊能忠敬」が活躍した頃です
また、私のひいおじいちゃん「K吉」は、
生まれは愛知県でした
どういうきっかけか分かりませんが
浜松に移住し、小さな製糸工場を
営んでいたようです
そして、「K吉」が浜松で家を建てた場所が
後に私の生まれ育った家です
また、「K吉」の生まれた愛知の家を
調べてみると、その街は、昔、
参勤交代の際に、宿屋として栄えていた街。
K吉の家も、当時の宿屋のメイン通りの
ような場所に建っていました
近隣の家は、宿屋だけでなく様々な店舗が
立ち並んでいたことから、
「K吉」が生まれた家は、商売を営んでいた
可能性があります
また、この「K吉」については、
戸籍から新たに分かったことが他にも…
「K吉」は、27歳のときに「M子」と結婚
「M子」は2人の娘を出産しますが、
次女が2歳のときに
次女とM子同じ日に亡くなっています
母と子である「M子」と「次女」は
同日に亡くなっていることから、
二人一緒に事故などにあったのだろうと推測します。
K吉は、妻と子を同時に亡くし、
とてもつらかったことでしょう。
さて、その後、K吉は32歳のときに再婚をします
相手は、亡くなった妻「M子」の妹
「N子」でした。
なんと、亡くなった妻の妹と再婚をしていた訳です
こういった事例は、昭和初期やそれ以前の時代では
少なくなかったようです。
今の時代とは、結婚の考え方がまったく違う時代。
本人が決める結婚ではなく、親が決める結婚
家を絶やさないための結婚であったことが
よくわかります。
また、後妻である「N子」の立場になって考えると、
自分の姉を亡くし、そして亡くなった自分の
姉の子供も引き取り、育てた
「N子」自身も、3人の子供を生みますが、
そのうち1人は幼いうちに亡くなっています
無事に大人になれるということが、
どんなにありがたく幸せなことかと
考えさせられます
自分のご先祖がそんな大変な思いをしたことは、
私も、
私の両親もずっと知りませんでした
と、このように戸籍を遡ると
先祖の生きた世界が見えてきます
まるでタイムスリップをして、
昔に行ったような気分です
他にも分かったことは沢山ありますが、
あまりにも長くなってしまうので
この辺で
戸籍からは、亡くなってしまって
調べられない先祖のことが分かります。
しかし、一番良いのは 生きているうちに
その家族のことを聞くこと。
ぜひ、親戚が集まる際には、
おじいちゃんやおばあちゃんの昔の話、
それより上の代のご先祖様の話を
聞いてみてくださいね
写真は、小さな頃の私と、祖父・祖母です