(昨日のブログの続きです)
昨年度、 内閣総理大臣賞を受賞した人権作文を紹介します。
君たちと同じ中学生が書いた作文です。ぜひ、読んで考えてみてください。
「身近で無意識な人権侵害」
佐賀県・佐賀市立東与賀中学校 3年
江川 麻理香(えがわ まりか)
私が入院した時,眼科や外科,内科などいろいろな病状の患者さんと知り合いになった。仕事で足を骨折した人,胃を悪くして入院した人,目の手術を受けた人など,年齢や性別,職業も様々で,ふだんあまり接することのない人たちと話す機会に恵まれた。病気やケガの苦労話はもちろんのこと,世代の違う人たちの話はとてもおもしろかった。「人権」について考える時,その中の一人の患者さんのことが頭に浮かんだ。
人権侵害とは,障害者やお年寄りなど,立場の弱い人たちに対する差別や,悪意のある偏見からくるものだとばかり思っていた。ところが,たとえ善意であっても思わぬところから人権の侵害になっていることがあるのだと考えさせられたのであった。
目の手術を受けたその人は,母と同年代ぐらいの女の人だった。目が不自由なことで,周りの人たちがとてもよくしてくれるのはいいが,そのために困ったり悲しい思いをすることもあるというのだった。私はこれまで,人に優しく親切にすることは,いわば常識であり,当然のことだと思っていただけに大きなショックを受けた。困った時に手を貸してくれるというのに,悲しい思いをするとはどういうことなのだろう。私たちが親切のつもりでやっていることが迷惑になっているというのだろうか。お年寄りや障害者をいたわるのは当たり前であり,それは感謝されることはあっても,迷惑に思うなどとは筋違いでは
ないだろうか。ところが,その人の立場から見れば,好意のつもりでも,まるで小さな子どものように扱われたり,これは危険だからと勝手に予測されて遠ざけられてしまったりと,自分の意思とは関係なく何でも先回りされてしまうのが悲しいのだそうだ。目は悪くとも,自分は子どもではないし,できなくはないことにまで,行き過ぎた親切にひどく心を傷つけられるのだという。また,相手がよかれと思ってくれていることだけに,それを断ろうものならあからさまにいやな顔をされたり,急に態度を変えられることもあったりで,かえって気を遣うのだそうだ。
私ははっとした。今まで手を貸す側から見ることはあっても,逆の立場から考えたことはなかったので大きな衝撃を受けた。いつの間にか,相手より自分を少し高い所に置いて見ていないだろうか。無意識のうちに相手のことを保護すべき弱者だとして見ていないだろうか。私は今,中学生だがそれ以下の子ども扱いされると腹が立つ。いちいち細かいことまで制限されたり禁止されたりすれば,確かにいい気持ちはしない。同じように,障害者や老人に対して,危険だ何だのと,その人ができることまでをも禁止し,まだこぼしてもいない湯のみを取り上げるようなことをしてはいないだろうか。
確かに,弱者をいたわり,手助けすることは,人として当然であり必要なことである。しかし,相手の気持ちや状況を考えず,ただ一方的に押しつけるだけの親切はただの自己満足でしかない。見えない人には見えない人なりのやり方や考え方があるのに,そこに寄り添うための理解がないとしたら,それは人権を侵害しているといえないだろうか。
人は皆,平等である。けれど環境や年齢,身体能力などは同じではない。だからこそ,人としての尊敬の念や思いやり,いたわりの心を持って接することが大切なのだと思う。
しばらく前の人権侵害とは,人を自分より見下したり,おとしめることで優越感を持つためのものだったように思う。そして今,生活や文化が豊かになった現代では,行き過ぎた親切やいたわりが人の心を傷つけ,それが新たな種類の人権侵害の一つになっていることもあるのだ。「善意,イコール,感謝されるべきもの」という考え方が全てに当てはまるとは限らない。また,当てはめようとしてはならない。その人にとっての「いちばん」は何か。ひとりひとりを尊重するためには,本当に助けが必要かどうか,出すぎたことをしていないかを見極めることも大切なのだと思う。
「人権」について考えること。それはとても難しいことのように思えるが,意外と簡単なことではないだろうか。同じ人間同士が並んで歩くための人と人との間の権利。私たちが無意識のうちに作り出している優劣の壁を取り払うこと。自分の価値観を人に押しつけないこと。自分も相手も同じひとりの人間なのだと,その人の心に寄り添い,理解し合う努力こそ,人権を守る大きな力になると思う。
昨年度、 内閣総理大臣賞を受賞した人権作文を紹介します。
君たちと同じ中学生が書いた作文です。ぜひ、読んで考えてみてください。
「身近で無意識な人権侵害」
佐賀県・佐賀市立東与賀中学校 3年
江川 麻理香(えがわ まりか)
私が入院した時,眼科や外科,内科などいろいろな病状の患者さんと知り合いになった。仕事で足を骨折した人,胃を悪くして入院した人,目の手術を受けた人など,年齢や性別,職業も様々で,ふだんあまり接することのない人たちと話す機会に恵まれた。病気やケガの苦労話はもちろんのこと,世代の違う人たちの話はとてもおもしろかった。「人権」について考える時,その中の一人の患者さんのことが頭に浮かんだ。
人権侵害とは,障害者やお年寄りなど,立場の弱い人たちに対する差別や,悪意のある偏見からくるものだとばかり思っていた。ところが,たとえ善意であっても思わぬところから人権の侵害になっていることがあるのだと考えさせられたのであった。
目の手術を受けたその人は,母と同年代ぐらいの女の人だった。目が不自由なことで,周りの人たちがとてもよくしてくれるのはいいが,そのために困ったり悲しい思いをすることもあるというのだった。私はこれまで,人に優しく親切にすることは,いわば常識であり,当然のことだと思っていただけに大きなショックを受けた。困った時に手を貸してくれるというのに,悲しい思いをするとはどういうことなのだろう。私たちが親切のつもりでやっていることが迷惑になっているというのだろうか。お年寄りや障害者をいたわるのは当たり前であり,それは感謝されることはあっても,迷惑に思うなどとは筋違いでは
ないだろうか。ところが,その人の立場から見れば,好意のつもりでも,まるで小さな子どものように扱われたり,これは危険だからと勝手に予測されて遠ざけられてしまったりと,自分の意思とは関係なく何でも先回りされてしまうのが悲しいのだそうだ。目は悪くとも,自分は子どもではないし,できなくはないことにまで,行き過ぎた親切にひどく心を傷つけられるのだという。また,相手がよかれと思ってくれていることだけに,それを断ろうものならあからさまにいやな顔をされたり,急に態度を変えられることもあったりで,かえって気を遣うのだそうだ。
私ははっとした。今まで手を貸す側から見ることはあっても,逆の立場から考えたことはなかったので大きな衝撃を受けた。いつの間にか,相手より自分を少し高い所に置いて見ていないだろうか。無意識のうちに相手のことを保護すべき弱者だとして見ていないだろうか。私は今,中学生だがそれ以下の子ども扱いされると腹が立つ。いちいち細かいことまで制限されたり禁止されたりすれば,確かにいい気持ちはしない。同じように,障害者や老人に対して,危険だ何だのと,その人ができることまでをも禁止し,まだこぼしてもいない湯のみを取り上げるようなことをしてはいないだろうか。
確かに,弱者をいたわり,手助けすることは,人として当然であり必要なことである。しかし,相手の気持ちや状況を考えず,ただ一方的に押しつけるだけの親切はただの自己満足でしかない。見えない人には見えない人なりのやり方や考え方があるのに,そこに寄り添うための理解がないとしたら,それは人権を侵害しているといえないだろうか。
人は皆,平等である。けれど環境や年齢,身体能力などは同じではない。だからこそ,人としての尊敬の念や思いやり,いたわりの心を持って接することが大切なのだと思う。
しばらく前の人権侵害とは,人を自分より見下したり,おとしめることで優越感を持つためのものだったように思う。そして今,生活や文化が豊かになった現代では,行き過ぎた親切やいたわりが人の心を傷つけ,それが新たな種類の人権侵害の一つになっていることもあるのだ。「善意,イコール,感謝されるべきもの」という考え方が全てに当てはまるとは限らない。また,当てはめようとしてはならない。その人にとっての「いちばん」は何か。ひとりひとりを尊重するためには,本当に助けが必要かどうか,出すぎたことをしていないかを見極めることも大切なのだと思う。
「人権」について考えること。それはとても難しいことのように思えるが,意外と簡単なことではないだろうか。同じ人間同士が並んで歩くための人と人との間の権利。私たちが無意識のうちに作り出している優劣の壁を取り払うこと。自分の価値観を人に押しつけないこと。自分も相手も同じひとりの人間なのだと,その人の心に寄り添い,理解し合う努力こそ,人権を守る大きな力になると思う。