緑豊かな庄内中学校の中で、
ひときわ涼しげな木陰を作っているプラタナスの木に
目を止めたことがありますか?
それは、正門から昇降口に向かっていく道の右手に
あります。
近づいてみると「思いやりの市民の木 プラタナス」
という碑が傍らに立っているのに気づきます。
このプラタナスの木にまつわる素敵なお話を
紹介したいと思います。
(以下、「浜松 市民の木」加藤幸男著 平成元年発行からの抜粋引用です)
「市民の木
昭和20年6月18日の大空襲は無残にも浜松駅付近をすべて焼きつくし
プラタナスの並木も焼けただれてしまいました。
ところが、このうちの1本だけは幹にこげ傷を残しながらも市民の愛の手に
守られ2年後の春みごとに発芽しました。
以後このプラタナスは道行く人に復興を呼びかけ勇気を与えてくれました。
昭和39年6月「市民の木」と名づけられ共に生き抜いてきた記念すべき
樹木です。」(新川公園にあった掲示板)
今、庄内中学校にあるプラタナスは、この”2代目の挿し木”が
大きく育ったものなのです。
では、なぜ、浜松駅から離れた庄内中学校に植樹されることに
なったのでしょうか。
「…市民の木の2代目の挿し木をプレゼントしますと、
市が募ったところ、市民から相次いで希望の投書が
寄せられている。市立庄内中学校で用務員をしている
岡田一子さんもその一人で、『中学校を卒業して住み込み店員
として働いていましたが、店先にあったこのプラタナスにいつも
勇気づけられていました』と綴ってきた。感激した市では
早速岡田さんにプレゼント、2代目のプラタナスは岡田さんの
母校で勤務先の庄内中学校にこのほど植えられた」
(昭和59年9月29日付 読売新聞記事)
あのプラタナスの木は、庄内中学校の先輩の強い思いで
この地に植樹される運びになったのです。
そして、それに感激した当時の庄内中学校の生徒が
一丸となって資源回収に取り組み、碑の建設費をつくった
そうです。
最後に岡田一子さんが市へ送った投書の文面から抜粋します。
「今から27年前の昭和32年、私は当時の北庄内中学校を卒業致しまして、
プラタナスの木の前のまだバラックのような建物の並ぶ中の
食料品店に住み込みで就職致しました。
初めて田舎の親元を離れての生活でしたので、随分心細い思いをしたものです。
そんな私を心配し父はある時一日中プラタナスの木の陰に
隠れて私を見守っていたそうです。その話を後から母に聞きまして、
たまらなく泣きました。今でもプラタナスの木を見ると、
父の心を思い、胸が熱くなります。
現在、3人の子の母親であると共に母校である庄内中学校の
用務員をしております。できれば市民の木を校庭に植えさせて
いただきましたら幸いです」
碑にあった「思いやり」という言葉には、
親が我が子を思う気持ち
岡田さんが母校を思う気持ち
当時の在校生が岡田さんを思う気持ちが
込められているように思います。
折しも市制100周年、庄内中学校統合50周年の今年。
庄内中学校の持つ歴史の深さや地域に支えられている
ことのありがたさをしみじみ感じました。